今回は、二つの鯰絵「風流葉唄尽」と「地震御守」についてのお話です。
まず「風流葉唄尽」の図版には、芸者姿の鯰が三味線を引き、それに合わせて雷が端唄を唄う場面が描かれています(図版①)。
鯰の表情は奇妙に歪み、不気味な雰囲気を醸し出していますね。
実は「風流葉唄尽」は、安政2年の地震時に作られたものではなく、
翌年8月下旬の台風や豪雨による洪水被害発生時に作られたものです(『鯰絵』 1995年)。
分類も鯰絵ではなく、参考資料として扱われています。鯰絵として解釈した書籍や所蔵機関もありますが、
私は鯰絵に分類しました。
といいますのも、もともとは、鯰絵として作られた版木に、翌年端唄の部分を加えた可能性もあり得ると
考えたからです(※1)。
そこで「風流葉唄尽」の鯰はなぜ地震ではなく、水害の象徴として制作されたのかを考えました。
まず江戸では、1722年(浅草川)、1729年(小石川)に、はじめて鯰の確認、また、
多く見られるようになったことが伝えられています(『魚譜』『日東魚譜』)。
そして、1782年に上演された歌舞伎「暫」にて、鯰坊主の台詞(「おれが今この髭をちっとばかり動かすと、
この秋のような地震がするぞ」)から、既にこの頃には、鯰が地震を表象
する概念が民衆にあることが読み取れます。
一方で、鯰伝承において西日本地域では、地震より水害にちなんだ事例が多くみられ、
鯰は、龍(蛇)と同じく水神の性質を備えています。ですが江戸の鯰伝承では、
水害や水神にちなんだ事例がありません。
ですので、安政2年の地震の翌年に、鯰絵に関わった絵師達が、水害の表徴として鯰を扱うことは考え難いのです。
もしかすると「風流葉唄尽」の作者は西日本地域出身か、もしく
は関連した人物が関わっていたのかもしれません。
もう一つの鯰絵は「地震御守」です(図版②)。
「地震御守」は、鹿島大明神に、剣で押さえられた地震鯰の前で、
京都•小田原•信州•伊勢で地震を起こした鯰が謝罪しています。詞書には、
鹿島神の御託宣が記され(札を柱に貼れば家は潰れない)ていることから、護符の作用を示しています。
よくみるとこの鯰には、本来存在しない腹板が描かれているのです。
頭部も独特の形体をしていますが、体だけ見ればまるで龍のようです。
これは、龍に比敵する頑強な力を鯰に見出した場面と考えられるのです。
そもそも、古来、日本では大気現象一般の表象は「龍」でした。
しかし、鯰は地底を揺るがすほどの威力を持つとされていたことから、
やがて、龍と同等であると捉えられるようになったのです。寛永元年(1624)には、
地震と鯰が大雑書「地底鯰之図」(毎年刊行された暦占い書)にて龍王の名称のみが「鯰」に変えられ、
のちに「大日本国地震之図」にて鯰に特定されたと伝わります。
この時期が、地震に対しての「恐れ」の象徴が龍から鯰への変換期であり、
そして「地震御守」は、その変容が読み取れる図版だと考えられます。
「地震御守」と「風流葉唄尽」は、国内鯰絵所蔵24機関のうち、それぞれ1、2箇所と少なく、
同一様式の図版も見当たりません。メッセージ性の強い鯰絵だと思います。
(※1)鯰絵は、奉行所が九名の絵草紙問屋を逮捕し、出版が中止になり版木が打ち壊されているため存在しません
(『鯰』)